人間の命よりも大事なものについて

今日はお金の話ではなく、価値観の話を記述したいと思います。

 

というのも、私が仕事のストレスに悩んで、似たような悩みをもつ方々のブログやYouTube動画などを拝見しておりますと、主に2つのタイプがいらっしゃるように思えました。

 

タイプ1:精神を重視するタイプ

支出を最低限度に抑え、収入は低くても好きなこと、ライフワークに集中する。精神的に健康を保つことを重視する。

タイプ2:お金を重視するタイプ

所有する資産金額を重視し、一定の資産をためてから、早期に退職して好きなことに取り組む。または特に何もせず、穏やかに過ごす時間を楽しむ。

 

タイプ1,2に共通していること:拝金主義(のことを、資本主義という言葉で代替する人が殆どですが)にはもう疲れた。働く時間を最小限におさえる(もしくは完全になくす)ために、金融・実物資産への投資をセーフティネットとして行う。そして拝金主義の価値観に縛られない自分なりの生き方を模索していこうとする。

 

私は、タイプ1,タイプ2、どちらの気持ちも痛いほどわかります。私自身は、どちらかというとタイプ2に属した行動をとっています。

一方で、私はタイプ1,タイプ2の間の議論というのは結局「結局同じだよな」と感じてしまうことが多かったです。なにが同じかといういうと、根底にある価値観が「人間にとって最も大事なものは人間の命である」ということです。

なので、タイプ1,タイプ2の違いや議論は、正直小さな違いなのではないかな、というふうに思ってしまうことが(少なくとも論理的思考としては)よくあります。生きる上で或いは死ぬうえで、重要なのはもっと別のことだろうと思うのです。

 

その重要なこととは、「人間には命よりも大事な価値があると認識するかどうか」です。

こんな問いは古臭いと思う人が大半でしょうか。私自身もそうでしたので、私がこのような問いを持つに至った経緯を書き留めておこうと思います。

 

世の中には大きく二通りの価値観があるのだな、ということを知ったのは、大体十年前の2015年頃です。当時30歳くらいだったと思いますから。

 

その二つというのを改めて記載しますと、以下のようになります。

 

ひとつには、 人間にとって最も大事なものは人間の命である、というものです。

また、もう少し広く、功利主義相対主義、理想主義的な価値観も含むものとします。

 

ふたつめには、人間には、人間の命よりも大事な価値がある、というものです。

また、もう少し広く、規範主義、絶対主義、現実主義的な価値観も含むものとします。

 

それまで、当たり前にひとつめの価値観に従って生きてきて、ふたつめの価値観は、過去の古臭いものだと、当たり前のように思っていて、意識すらしていなかった状態の私でした。ですから、ふたつめの価値観とその価値観に従って生きている人が、(特に日本では)少数ながらまだ現存しているのだ、ということを事実として受け入れるまでに、かなり長い年月(大体5年くらい)を要しました。

 

ふたつめの価値観を知ったきっかけは、青山繫晴氏の「ザ ボイス そこまでいうか!」というラジオでしたね。政治経済についての氏の評論を聴いたことがきっかけで、YouTubeで青山繫晴氏の名前で検索してみると、同氏の「答えて答えて答える!」という番組を知りました。「答えて答えて答える!」はかなりの長寿番組だったと思いますが、ほぼすべての動画を見ました。哲学、生き方、政治、経済、技術、あらゆる分野の視聴者の質問に対して、青山繫晴氏が直接、動画の中で回答をしていく、という番組です。毎日、暇さえあれば、その動画を熱中して視聴する中で知ったのは、メインの内容である「哲学・生き方・政治・経済に関する質問への回答」を総合して鑑みるに、青山繫晴氏の「生きる覚悟」のようなものでした。言い換えると、「人間には命より大事なものがある、と信じ、その信念に基づいて生きている人が、今もいるのだな。その中の一人が青山繫晴氏なのだな」ということでした。それには衝撃を受けたものです。

 

その後、哲学・政治・経済に関心を持つようになり、いろいろと本や動画を漁る様になりました。特に、「土木工学や経済学などの実学と哲学のつながり」「現代貨幣理論」「デフレ期における公共事業による経済政策の重要性」などを藤井聡氏、「哲学と政治学の関係」「国際政治学の各学説」「核戦略理論」などの話を伊藤貫氏からYouTube上や経営科学出版のコンテンツ、その他の書籍などで学び、青山繫晴氏の意見とは違う、哲学・政治・経済に関する意見を、私自身は持つようになりました。しかし、「人間には命より大事なものがある」、という価値観に従って生きている事それ自体は、青山繫晴氏だけでなく、藤井聡氏も、伊藤貫氏も、大枠で全員に共通しているのだな、ということが、よく理解できたのです。

 

同時に、そういう目線で、世の中を改めて見渡してみると、特に日本において、ふたつめの価値観(人間には生命以上の普遍的価値をもつ人生規範があるとする価値観)は殆ど死に絶えているのだな、ということが、はじめて理解できました。そして結局のところ、ふたつめの価値観が真理であり、ひとつめの価値観(生命が最も大切であり、それ以外の価値は、人それぞれで違って当然であり、多様性を追求すれば人類全体が幸福になるという価値観)だけで人間は生きられるものではないと、私自身は理解しつつも、生粋の不器用人間ですから、日常の生活態度は99%、ひとつめの価値観から脱することはできないでいるのでした。

 

そういった「人間の理想の価値観」と「現代日本社会の下で完全に定着した(或いはある種の洗脳を施された)私自身の功利主義的価値観」の大きなギャップ、それが今の私の絶望の本質的な理由なんだと思います。

 

別の言い方をしますと、私が日々の生活において、仕事が忙しく、自由な時間がなくて、人生に絶望している状況というのは、一見すると「仕事のストレス」が原因だと思われるのですが、それは表層的な理由であって、実は違う。

本質的には「ひとつめの価値観」に縛られているから、絶望しているのだということが、わかったわけです。「ふたつめの価値観」に(100%でないにしても、ある程度は)移行しきれないかぎり、私の考える「まとも」な生き方というのはできないのだと思います。

 

従って、会社を早期に退職するかどうかというのは、「ふたつめの価値観」に移行する手段、道程として選択するのならいいのですが、「ひとつめの価値観」を追求するために、つまり「自分の命を大事にすること=自分の命の安寧や、自己実現、自己満足」を追求するために、早期に退職したとしても、違う種類の絶望に苛まれることになるのであろうと、そのように思います。しかし、最終的に絶望するということが分かっていながら、人生のひとつの経験として、敢えてその選択をするというのも、肥しとしては良いのかもしれませんけれど。

 

以上、とりとめのない文章になってしまい、恐縮ですが、たまの土曜日の午後という最も落ち着いた時間帯を使い、この十年間で最も自分が気になっていた問題に対する今の私の認識の状況を、書き留めておきたいとおもいます。